≪聖書日課≫

 

21日(月) 

Ⅰコリント書15章1~11節 【今あるは神の恵み】 

パウロは、自らがコリントの教会にもたらしたイエス・キリストの福音の核心を、もう一度語り直そうと言います。原点に立ち帰るのです。その的を外すと、キリスト教信仰そのものが変質し、歪んだものとなってしまいかねません。その核心にとどまることが肝要です。 

パウロの伝えた福音は、パウロも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したことです。よみがえりのキリストに出会った証人たちのリストが書かれ、その最後にパウロは、慎み深く自分の名前を書き加えています。 

 

  22日(火) 

Ⅰコリント書15章12~19節 【死者の復活の事実】 

コリント教会の中に、イエス・キリストの復活については信じられるけれども、死者の復活に関して疑念を投げかける信徒たちが出てきました。死者の復活の約束は、主イエスが与えてくださったもので、キリスト教信仰の核心に位置する教えです。死者の復活の希望がなくなれば、キリストの復活も意味を失います。

そうすれば、キリスト教の宣教そのものが虚構の上に立てられたものとなり、罪の赦しもなくなり、信仰は無意味なものになってしまいます。そうだとすると、既に天に召された人は滅んでしまったことになり、復活の希望を見失った信仰者は、惨めな存在となってしまいます。 

 

  23(水) 

Ⅰコリント書15章20~28節 【復活の初穂】 

アダムをキリストの予型とする予型論的アダムーキリスト論が語られています。死がアダムの犯した原罪によって入り込んだように、復活の命がキリストによってもたらされたのです。しかし、復活には順序があります。最初にキリスト、次いでキリストが来られるときに、キリストに属している人たちです。次いで、世の終わりが来ます。そのときにはすべての支配、すべての権威や勢力は滅ぼされ、父である神に国は引き渡されます。 

最後の敵として、死が滅ぼされます。そのときにはすべてが御子に服従し、神の支配が完成し、神の国が到来するのです。 

 

24日(木) 

Ⅰコリント書15章29~34節 【日々死に、日々生きる】 

コリントの教会では、バプテスマを受けることなく死んでしまった近親者の救いのために、既に入信している者が代わりにバプテスマを受けるということが行われておりました。死者の復活を信じないならば、そのような「代理洗礼」といった行動は無意味になってしまうではないか、と問いかけています。更に、福音宣教に伴って生じる周辺社会とのあつれきは、伝道者たちの身をいつも危険にさらしています。そのようにして、信仰者は日々死んでいるのです。 

もし、死者の復活がないのなら、生きている今を面白おかしく生きることに専念しようではないか、ということになります。 

 

25日(金) 

Ⅰコリント書15章35~41節 【天上の体の輝きを求めて】 

復活は単なる蘇生ではありません。地に蒔かれた種が一度死んで、全く異なった形で復活するように、復活の体は私たちの想像を超えた形でもたらされるものです。この世の生と来たるべき生の間には、連続性と非連続性があります。個性や人格は連続し、姿かたちは変容するのです。神は、御心のままに、それをお与えになります。 

形の相違は生物の肉の多様性と、宇宙の体の相違及び天体における輝きの多様性によって、補足的に説明されています。輝きは神の栄光の反映を意味し、具体的イメージとしては夜空に輝く星です。宇宙のすべては別様に栄光を持っているのです。 

 

26日(土) 

Ⅰコリント書15章42~49節 【霊の体への復活】 

今の生と復活の体が、「朽ちるもの―朽ちないもの」、「卑しいもの―輝かしいもの」、「弱いもの―力強いもの」の三対のたとえで語られています。現在の生が「自然の命の体」、復活の体が「霊の体」と言われています。それが、最初の人アダムと、最後のアダムであるキリストを象徴しています。 

そして、最初の人アダムは命のある生き物となったのに対し、最後のアダムは命を与える霊となった、と言われています。最初の人は土ででき、地に属する者であるのに対し、第二の人は天に属する者なのです。そして信仰者は、天に属するキリストに等しいのです。 

 

  27日(日) 

Ⅰコリント書15章50~58節 【復活の希望にしっかり立つ】 

今の世と来るべき世の間には、断絶があります。肉と血は、神の国を受け継ぐことはできません。朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできないのです。体の復活は終末時に起こる出来事です。最後のラッパが鳴るとともに、死者は復活して朽ちない者とされ、その時を生きて迎える者は一瞬のうちに変えられます。朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着ることになるのです。 

最後の敵である死が勝利にのみ込まれることが終末の到来、時の完成なのです。この勝利をもたらしてくださる主イエス・キリストを見上げてしっかりと立ち、主の業に励むのです。