《2018年10月14 7日(日)、山形キリスト教会主日礼拝

「全地に満ちる神の威光」              詩編8編1~10節

山形キリスト教会牧師 杉山修一

 

 古来日本人は、花鳥風月を愛でて生きてきました。四季の移ろいの中にもののあわれを感じ取り、人の命のはかなさを歌に詠み込んできました。自然界に溶け込むように命を紡いできた、とも言えるでしょうか。その中で、人間同士の愛憎劇も繰り返されています。それが短歌や文学、絵画などに現れています。争いや戦乱といっても、近代を除けば同一民族内での争いにとどまり、他民族との対立抗争は数えるほどしかありません。文化的には中国の影響が圧倒的で、それに朝鮮半島との人的交流が加わり、それらがベースになって日本独自の文化が形成されてきたように思います。

 

それに対し聖書の世界は、ひたすら主なる神と向き合って生きようともがき、苦しんで来たイスラエル民族の、存亡をかけた葛藤の歴史が描かれている、と言っていいかと思います。信従と背信が繰り返され、悲哀と喜びが交錯し、周辺民族との対立抗争に明け暮れ、大国に蹂躙されては奇跡的に生き延びてきた、一少数民族の驚きの歴史です。イスラエル民族は、エジプトのピラミッドのような巨大な建造物を残したわけではありません。ギリシアのように彫刻などの優れた芸術作品を残したわけでもありません。ローマのように圧倒的な軍事力や統治能力が発揮されたわけでもありません。イスラエル民族が残したのはただ一つ、聖書だけです。イスラエルは主なる神との交わりに呼び出され、人類・世界に神の御意思を伝え広めるという使命を与えられました。それは自ら買って出た任務ではありません。一方的に主なる神の方からその使命を背負い込まされたのです。そのため、主なる神との出会いと交わりの一部始終を、誇らしいことも、恥ずかしいことも、晴れがましいことも、目を覆いたくなるようなことも包み隠さず記録し、後世に遺すというただ一点で人類史に貢献しているのです。

 

聖書には、主なる神のイスラエルに対する働きかけは記されているものの、神そのものの姿は描かれておりません。イスラエルはその歩み、歴史を通して主なる神を証しし、指し示すことはできても、神の姿を描き記すことは許されておりません。自らその姿を見ることも許されてはおりません。主なる神は目に見えないお方であるけれども生きておられ、すべての人を御自身との交わりに招いておられ、神を見失って、神なしに生きていた人々が主なる神に立ち帰って生きようとすることを、無上の喜びとしてくださるお方です。イスラエルは、自らの至らなさや失敗や罪の数々を通して、主なる神がどんなに憐れみに富み、寛容と忍耐にあふれ、慈愛に満ちたお方であるかということを、反面教師のように教え示しているのです。

 そのようなことを念頭に、今朝のテキストを読み進んで行きたいと思います。この詩編第8編は、最初と最後に全く同じ言葉が出て参ります。 

  「主よ、わたしたちの主よ 

  あなたの御名は、いかに力強く 

  全地に満ちていることでしょう。」 

という神賛美の言葉です。初めと終わり、最初と最後が全く同じ言葉で、この8編全体を囲んでいるのです。ですから、一見してこの詩編は、心からの神賛美を歌っている詩編であることが分かります。

 

 主なる神は天地万物をお造りになられましたので、主なる神をほめたたえるというのは、天に輝いている神の威光をほめたたえることになります。逆に、天に輝いている神の威光をほめたたえることは、主なる神をほめたたえていることでもある、といった方がいいかもしれません。しかも主なる神の威光をほめたたえるのは、祭司でもなければ、王侯貴族といった権力者でもありません。えりすぐりの聖歌隊ですらありません。幼子、乳飲み子たちの口によってである、と言われています。常識で考えたら、そんなことは到底あり得ません。しかし、乳飲み子の「アーアー」や「バブバブ」、幼子の発する片言が、神の大いなる御業をほめたたえているというのです。この幼子たちの存在と、神に刃向かう者や報復する敵は、全く釣り合いが取れません。無力な、無防備な幼子、乳飲み子たちが神賛美に招かれているのに対し、神に刃向かう者や報復する敵は絶ち滅ぼされてしまうのです。それが主なる神のなさることなのです。

 

 今、この信仰者は、広大な無限大の宇宙空間に目を転じています。当時の天文学は、現代の天文学に比べるべくもありません。それでも、満天の星空を仰いで畏怖の念を抱き、神の創造の御業に思いを馳せることは、現代の私たちでも経験できることです。そのような壮大な宇宙の創造の御業に比べれば、人間の存在はちっぽけなものでしかありません。不思議なのは、そのような芥子粒ほどの存在に過ぎない人の子、人間に対し、どうして主なる神は御心に留めてくださるのかということです。神様に顧みていただく値打ちなど全くないにもかかわらず、どうして神は憐れみの心を注いでくださるのかということです。この問いは、信仰に生きる者は誰でもが抱かせられる問いです。自分のような者が、足手まといにしかならないような者が、神の憐れみと恵みをいただいて生かされているということは、常識では受け入れがたい事柄であり続けるのです。

 

 6~7節には、神のえこひいきの根拠が物語られています。「神にわずかに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ」ということは、創世記2章の天地創造物語によれば、アダムが鼻から命の息を吹き入れられたことを象徴しています。神の霊を与えられることによって、人間は尊厳ある生き物とされたことを物語っています。創世記1章の人間の創造の場面では、神にかたどって創造された人間は、地を治めることを命じられています。それは、人間が自分の都合のいいように貪ることが許容されているということではなく、神の創造の目的にかなうように地を管理することを委ねられ、その責任を託されたことと受けとめたいのです。

 

 イスラエルの民は、天地万物をお造りになられた神の創造の御業そのものに、心を捕らわれてしまうことはありません。その創造の御業を成し遂げてくださった主なる神に思いを寄せ、神の御名をほめたたえるのです。この詩編8編の前と後ろに、全く同じ神賛美の言葉が置かれているのは、そのことを蔑ろにしないように、ゆめゆめそのことを忘れないようにという、戒め的な意味合いが込められているようにも思うのです。

 

聖書は、主なる神からの働きかけを受けたイスラエルの神体験をもとに編纂されています。それは、神からの招きであり、召命であり、憐れみであり、忍耐であり、問いかけであり、赦しであり、祝福です。 

 もう一度2節と10節の御言葉(全く同じ言葉ですが)をお読みして終わりたいと思います。 

「主よ、わたしたちの主よ 

  あなたの御名は、いかに力強く 

  全地に満ちていることでしょう。」 

「主よ、わたしたちの主よ 

  あなたの御名は、いかに力強く 

  全地に満ちていることでしょう。」

  

お祈りをいたします。