2019年2月17日(日)、山形キリスト教会主日礼拝

「誰が隣人になったか」        ルカ福音書10章25~37節

山形キリスト教会牧師 杉山修一

 

権威者は大事な存在です。何が真実で何が間違いかを的確に判断し、教え示してくれるからです。この世の中の秩序が保たれているのは、権威者が正しい判断を導いてくれているからだ、と言っても過言ではありません。しかし、往々にして権威者が陥りやすい罠があります。それは何かというと、謙虚さを見失ってしまいがちだということです。それはそうです。皆から権威者として一目置かれるようになると、その人の見解が重んじられ、その人の考え方に基づいて事柄が認識され、解釈がなされ、予測が示され、対策が講じられていくことになるからです。それはきっと、その人にとっては気持ちのいいことに違いありません。自己実現がなされるからです。

 

5章17節以降に、「中風の人をいやす」という小見出しが付いた段落があります。主イエスが教え、病気をいやしておられる場面に、中風を患っている人が床に乗せられて運び込まれます。屋根の瓦がはがされ、主イエスの前に病人がつり降ろされます。主がその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われると、その場にいた律法学者やファリサイ派の人々はあれこれと思い巡らし、「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と考え始めた、という場面があります。

 

その後にも、安息日に主イエスの弟子たちが空腹を満たすために麦畑で麦の穂を摘んで食べたことや、安息日に会堂で主イエスが右手の萎えた人をいやしてあげた場面で、律法学者やファリサイ派の人々が激しく反発する記事があります。自分たちが取り仕切って来たユダヤ人社会で、自分たちの宗教的権威を揺るがすような言動を主イエスが始めたことで、律法学者やファリサイ派の人々の面子は大きく傷つけられてしまいました。主イエスに対する憎しみと殺意はもう隠しようがないところまで来てしまいました。

 

そのような状況からすると、この場面に登場する律法の専門家は、穏健な人物であるように思われるのです。彼は主イエスを試そうとして言葉を投げかけています。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」挑戦的でもなければ、挑発的でもありません。主イエスに対し、相応の敬意を払っているような印象を持ちます。そして彼は、既にその答えを自分の内に持っています。主イエスから「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返されて、きちんと律法の黄金律と言われている二つの戒めの言葉を引用して答えています。一つは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という申命記6章5節から引用句です。もう一つは「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記1918節からの引用句です。

 

 主イエスが、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と切り返されると、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言葉を継いで、一般論の中に逃げ込もうとしています。主イエスを試そうと問いを投げかけたのに、逆に問いを畳みかけられて、この律法学者はタジタジです。率直に自分の非を認めて白旗を挙げるほどの素直さは、持ち合わせておりません。律法の専門家としてのプライドが頭をもたげたようにも見受けられます。

 

 主イエスは、彼のいなしにもしっかりと対応してくださり、一つの逸話をお話しくださいました。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた、追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った」というのです。いかにもありそうな事件です。エルサレムは標高約800mほどの高台にあります。そこから4050kmほど離れたエリコの町は、死海の近くに開けたナツメヤシやオリーブ、ぶどう、いちじくといった果樹栽培が盛んな温暖な地帯で、標高はマイナス250mですので、エルサレムとの標高差は1,000mもあります。高低差が大きく険しい山道ですので、追いはぎもよく出没したようです。そこで、「ある人」が追いはぎに襲われて身ぐるみはぎ取られ、半殺しの状態で放置されていたというのです。

 

 そこをたまたまある祭司が通りかかります。「下って来た」とありますから、彼は神殿での務めを終え、エルサレムからエリコにある自分の家に帰る途中です。これからエルサレムに上り、神殿のお務めをしようというのではありません。お務めを終えて、家路を急いでいるだけなのです。これから神殿に行こうとしているのであれば、死体に触れたら身が汚れるというので、この半殺し状態の人にはかかわりを持ちたくないという言い訳も、少しはもっともらしく聞こえるかもしれません。しかし、務めを終えた帰り道であれば、そんな言い訳も通りません。彼は「その人を見ると、道の向こう側を通って行った」のです。

 

 その後で、祭司の下で補助的な働きを担っているレビ人も、そこにやって来ました。彼もエルサレムでの務めを終えて、家に帰る途中です。彼も祭司と同じように、「その人を見ると、道の向こう側を通って行って」しまったのです。祭司もレビ人も、「道の向こう側を通って行った」ということですから、良心の咎めは感じていたように思われるのです。見て見ぬふりをしながら、かかわりを持とうとしなかったのです。もう少し人通りが多くて、誰か他の人が見ていたら、また状況が違ってきていたかもしれません。人は、誰も見ていないところで、神様と向かい合わされていきます。本当に神様と向かい合っているのかどうか、人陰に隠れて神様が見えなくされているだけなのかを、試されて参ります。

 

 ここにもう一人の人が登場します。「旅をしていたサマリア人」です。おそらく彼は商人ではなかったかと思います。サマリアに住んでいて、時々エルサレムに上って商売をしていた商人です。何か分かりませんが、商品をロバに乗せていたか、あるいはエルサレムで何か商品を仕入れようとしていたのかもしれません。その場合、ろばの背に荷物はないようですので、後者の可能性の方が大きいようにも思います。このサマリア人は、道に倒れている「その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」のです。彼の憐れみはそれだけにとどまりません。彼は、「翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」と述べています。何の関係もない人です。おそらくこのけが人はユダヤ人と思われますから、ふだん付き合いのないユダヤ人とサマリア人の間柄です。何でそこまでするの、といぶかしがられてもおかしくはありません。

 

 祭司やレビ人と、このサマリア人の商人とはどこが違うのでしょうか。何が違っていたのでしょうか。それは「憐れに思う」という言葉に集約されているように思います。「憐れに思う」という言葉は、素直な心の動きです。目の前の出来事に心を揺り動かされて行くのです。聖書の神は、憐れみ深いお方です。出エジプト記34章6~7節には、主なる神がシナイ山でモーセに顕現なさったときに告げられた言葉が記されています。それをお読みしますと、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」とあります。聖書の神はそのようなお方です。そして神は、民がそのような思いに生きることを喜んでくださるお方なのです。主イエスはこの善きサマリア人のたとえを通して、そのことをお示しくださっておられるように思うのです。

 

 主は、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と、この律法の専門家に問いかけておられます。こんな分かり切った問いを律法の専門家に投げかけるとは、ちょっと失礼のようにも思います。かといって、彼はへそを曲げて、プイッとその場を立ち去るわけではありません。彼は小さな声だったろうと思いますが、きちんと「その人を助けた人です」と答えています。彼は、聖書の神を信じる信仰とはどういうものであるかについて、このとき初めて知ったかのように、顔を赤らめて答えている様子が目に浮かぶような気がいたします。その彼の背中を、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの言葉が後押ししてくれているように思います。

 

 彼は、この言葉を聞いて主イエスに反感を抱いたり、恥をかかされたとばかりに恨みを抱いているようには見えません。彼は信仰の目を開かれた者の一人として、主なる神の御前に立つことを主イエスに教えられ、神に立ち帰って行ったのではないでしょうか。

 

 詩編861516節をお読みして終わります。 

 「主よ、あなたは情け深い神 

 憐れみに富み、忍耐強く 

 慈しみとまことに満ちておられる。 

 わたしに御顔を向け、憐れんでください。 

 御力をあなたの僕に分け与え 

 あなたのはしための子をお救いください。」 

 

お祈りをいたします。