2018年12月9日(日)、山形キリスト教会待降節第二主日礼拝

「イエス・キリストの系図」           マタイ福音書1章1~17節

山形キリスト教会牧師 杉山修一

 

 高校に入学し、住んでいた松尾鉱山から岩手県の県庁所在地・盛岡に出て、下宿生活が始まりました。今から50年以上も昔のことです。書店で一冊の「新約聖書」を買い求め、最初のページを開いたところ、この系図が出て来ました。分からない名前の羅列ですので、ここのところはすっ飛ばして、18節のイエス・キリストの誕生物語のところから読み始めたことを覚えています。この個所をまともに読むようになったのは、牧師になって、説教テキストとして取り上げるようになってからのことです。

 

 このマタイ福音書1章冒頭の系図と同じような系図が、ルカ福音書3章にもあります。両者を比べてみると、面白い違いが見えてきます。マタイ福音書の方では、アブラハムから始まり、主イエスに至るまでの系図を、アブラハムからダビデまでの14代、ダビデからバビロンへの移住までの14代、バビロンに移されてから主イエスまでの14代という具合に3区分しています。ルカ福音書の方では、主イエスからさかのぼって行き、アブラハムを超えてアダムにまで達し、神の天地創造物語につなげています。歴代誌上1~9章に細かな系図があります。マタイもルカも、これを土台にそれぞれの系図を再構成しているように思われるのです。細かく突き合わせて見ていくと、少なからず名前に違いが見られます。あまり事細かに詮索するのは意味ないかもしれません。

 

 日本人的感覚からすると、系図をたどると源氏や平氏にまでルーツをさかのぼることができるというようなことがあると、それがさも血統書付きの由緒ある家系であることの証明につながってくるような、そういうニュアンスで語られることが多いのですが、このマタイ福音書の「イエス・キリストの系図」は、どうもそれとはちょっとずれているような感触を受けるのです。ユダヤ教でも、律法で跡継ぎは長子・長男と定められておりましたが、必ずしもそのことが厳格に守られているわけではありません。

 

3節に登場するユダとタマルは、義理の父と嫁の関係です。ユダには3人の息子がいて、長男エルのもとにタマルは嫁ぎます。そのエルは子をもうけずに死んでしまったので、タマルは次男のオナンに嫁がされますが、オナンも子をもうけずに死んでしまいます。三男のシェラはまだ幼かったことと、父親のユダがタマルに不吉なものを感じたため、タマルを実家に帰してしまいます。ところがシェラが成人しても、タマルをシェラの嫁に迎えようというお呼びはかかりません。そこでタマルは一計を案じて娼婦に成りすまし、義理の父であるユダと関係を持って双子を産み落とします。それが3節に書かれているペレツとゼラです。

 5節に出て来るラハブは、エリコの町の様子を探るためにヨシュアから遣わされた二人の斥候をかくまった遊女です。同じ5節に顔を出すルツはモアブの女です。エリメレクとナオミ夫婦は、飢饉を逃れてモアブの地に移り住み、二人の息子たちにモアブの女を嫁に迎えました。ところが、夫エリメレクは死に、二人の息子たちも子をもうけずにモアブの地で死んでしまいます。ナオミは若くして寡婦となってしまった二人のモアブ人の嫁に、それぞれ自分たちの里に帰って、もう一度人生をやり直すように説得を試みます。長男の嫁オルパは泣く泣く別れを告げて里に帰ったものの、次男の嫁ルツは姑のナオミにすがりついて離れません。そしてナオミと一緒にベツレヘムに帰って来たのです。その後ルツは、一族の有力な親戚筋にあたるボアズの畑で落穂拾いをしているところをボアズに見初められ、引き取られて妻に迎えられます。そうして生まれたのがオベドで、オベドはエッサイをもうけ、エッサイからダビデが生まれます。

 

 6節には、ダビデ王の犯した赦しがたい貪りの罪によって、王宮に引き取られ、王の妻に迎えられたウリヤの妻バト・シェバが、名前を上げられずに出て参ります。そして彼女が産んだソロモンが系図の中にしっかりとその名を刻んでいるのです。

 

 植物で言ったら、実生苗ばかりではありません。挿し木があったり、接ぎ木があったり、取り木があったりするのです。血筋や血統を乗り越えて、神の計画が貫かれていることを見る思いがいたします。ヨハネ福音書1章13節に、イエス・キリストを信じる人々に関して、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」という言葉が向けられています。パウロの言葉を借りれば、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ書3章24)という言葉を思い起こします。神の救済史は、由緒ある血筋の者だけに任せられているのではありません。かえって名もなき者、歴史の片隅に追いやられていた者、虐げられ、悲哀をかこっていた者たちによってこそ担われていることを、この「イエス・キリストの系図」は物語っているのではないでしょうか。

 

 もう一つ言えば、マリアの夫ヨセフは曲がりなりにもダビデの家系に属するものの、マリアはダビデの家系とは何のつながりもありません。マリアの胎の子は聖霊によって宿った子ですから、ヨセフの血を受け継いではおりません。ただヨセフは、形式上はいいなづけの夫というだけですから、主イエスに対し「ダビデの子」と言うには「名目上の」と言う枕詞をつけなければならないような関係です。そのようなことは人間的に言えば大事なことであるかもしれませんが、神様にとっては何の意味もない事柄であることが宣告されているように思います。頑な人々の硬直した思いに寄り添うために、神はあえてヨセフのいいなずけのマリアの胎を借りて、御子をこの世にお送りくださったことが見えてきます。

 

 この系図の中に登場する人たちは、この複雑で混沌とした世界を反映しています。神の救済史を、正統的な血筋によって担ったのではありません。意識するとしないとにかかわらず、主なる神を信じる信仰によってそれぞれが託された役割を担わされ、それを精いっぱいに担いきった一人一人です。置かれた状況の中で、背伸びすることなく、かといっていじけることなく、それぞれが自分の分を果たして行った一人一人です。中には無名の人もいます。王もいますが、娼婦もいます。族長たちもいますが、寡婦もいます。混沌としたモザイク模様のようですが、目を凝らしてみると飼い葉桶の中に寝かせてある幼子が、おぼろげながら見えてきます。

 

 この人たちが歩んだ歴史は、神の選びの民イスラエルの苦渋に満ちた歴史そのものを体現しているのではないでしょうか。そして、この人たちが用いられたということは、主なる神が彼らに寄り添ってくださっておられたこと、主なる神がイスラエルの歴史に寄り添ってくださっておられたことを、証ししていることではないでしょうか。

 

 ヘブライ人への手紙12章1~2節をお読みして終わりたいと思います。

 

 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」 

 

お祈りをいたします。