《2018年 5月20日(日)、山形キリスト教会主日礼拝

「教会を造り上げる預言の言葉」  コリントの信徒への手紙一14章1~19節

山形キリスト教会牧師 杉山修一

 

九州・福岡の西南学院大学神学部に入学した時、何人かの神学生から「異言」に関する話を聞いたことがあります。自分は異言を話すことができる、とか異言が語られるのをこの耳で聞いた、といった話で、そのような経験がない自分にとっては、ちょっとついて行けない思いを抱いたことを覚えています。「異言」というのは、理解できない言葉で神がかったことを語ること、と言ったらいいでしょうか。青森県の下北半島に恐山という霊場がありますが、そこには「いたこ」と言われる女性たちがいて、死んだ人の霊を呼び寄せて、その思いを伝える「口寄せ」という風習があると聞いています。「いたこ」が語るのはクライエント(相談者)が分かる言葉、理解できる内容ですので、「異言」とはちょっと違うとは思いますが、死んだ肉親の言葉を取り次いで教えてくれるという意味で、パウロが語っている異言の解釈者のような存在なのかな、と思います。

 

新約聖書の中に、「異言」という言葉は24回出てきますが、そのうち22回はこの「第一コリント書」の1214章に集中的に出て参ります。他の2回は「使徒言行録」です。旧訳聖書はどうかと思って調べて見ましたら、旧約聖書には「預言」は山ほど出てくるのに対し、「異言」はただの一回も出てきません。ですから、「異言」はイスラエルの宗教的な伝統の中にはないものだ、ということが言えるだろうと思います。パウロの書いた他の手紙には「異言」は出てきませんので、「異言」は異教の影響を受けてコリント教会の中に入り込んできた宗教現象、と言っていいだろうと思います。

 

でも、パウロは、「異言」は異教的なものだから教会の礼拝からは排除しなさい、と語るわけではありません。今朝のテキストの最後のところ、1418節で、「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」と語っていますので、パウロは「異言」に違和感を抱いているわけではない、ということが分かります。パウロが問題視しているのは、コリント教会の中で「異言」が霊的な賜物の中で必要以上に重要視されてしまっている、ということです。礼拝の中で、神がかり的に理解不能な奇声を発したり、意味不明の叫び声をあげる人がいて、その人が特別視されるようなことが起こっていたとしたら、どうでしょうか。明らかに礼拝の秩序は乱れてしまいます。落ち着いて、冷静に神の言葉を聞く雰囲気ではなくなってしまいます。

 

パウロは、12章から「霊的な賜物」について語り始めました。そこで言われていたのは、まず第一に、イエス・キリストを信じる思いを与え、信仰告白を呼び起こしてくださるのは聖霊の働きだ、ということでした(3節)。第二に、霊的な賜物、教会の務めや働きは多様性に富んでいるけれども、それらを与えてくださるのは同じ霊、同じ主、同じ神だ、ということです(4~6節)。第三に、神が望むがままに霊の賜物を与えてくださるのは、全体の益となるためだ、ということです(7、11節)。そして、必要以上に「異言」の賜物を重要視、特別視しようとするコリント教会の信徒たちに対し、パウロは「異言」の賜物を相対化して見せてくれているのです。しかも、霊の賜物の中では一番後に、最後に取り上げられているのです(8~10節)。

 

 そして、体のたとえを用いて、体の部分はそれぞれ別個にあるのではなく、各部分部分は有機的につながっていて、お互いに支え合い、引き立て合いながら存在していることが言われていました。その流れの中で、13章に入ると愛に生きることが「最高の道」として示されていました。いずれも神から賜る霊的な賜物の一つ一つですが、「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れ」(8節)ていくのです。

 

 14章に入ると、「愛を追い求めなさい」(1節)と繰り返した後で、「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(同)と語り、「預言」と「異言」の違いに触れると共に、「異言」に対する「預言」の優位性を解き明かしてくれています。どういう点で「預言」は「異言」よりも重要なのかというと、「異言」が神に向かって語るものであるがゆえに、その語られている神秘はだれか他の人に解き明かしてもらわなければ理解できないのに対し、「預言」は人に向かって語られるので、「人を造り上げ、励まし、慰める」(3節)のです。それゆえに、「預言する者は教会を造り上げる」(4節)ことになるのです。これは大きな違いです。「異言」が礼拝に混乱をもたらし、教会の中に対立と不和を生み出すことを考えたら、それこそ雲泥の違いです。

 

 「異言」はだれかに解釈してもらわなければ理解できません。14節の言葉を借りれば、「わたしが異言で祈る場合、それはわたしが霊で祈っているのですが、理性は実を結びません」という事態を招いてしまうのです。それゆえに「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも讃美することにしましょう」15節)と告げられているのです。決して異言を排除するわけではありません。霊で祈ると共に理性でも祈りましょう。霊で賛美すると共に理性でも讃美しましょう、と語るのです。理性が強調されていることに、注意を払いたいと思います。

 

26節からは「集会の秩序」について言及されています。「あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」と告げられています。当時の礼拝の様子がどんなものであったかを、思い描かせてくれるような内容です。そして「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい」27~28節)と命じられています。ともすると異言を語る者は、タガが外れたように勝手に語り出すことが多かったようですが、パウロは礼拝の秩序を保つために、彼らに自制を求めています。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」33節)とあります。教会の礼拝の中に位置づけられている「説教」「宣教」は、ここでパウロが語っている「預言」の流れを汲むものとして受けとめられています。「預言」は、神の御心を解き明かし、人々の心に悔い改めの思いを呼び起こし、人々をイエス・キリストへの主告白へと導く役割と働きを担っているのです。その意味で、「預言」は教会を造り上げ、罪人を神に立ち帰らせ、人々を造り上げていくものなのです。

 

 3940節をお読みして終わりたいと思います。

 

 「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。」 

 

 お祈りをいたします。